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GHC最年少マネジャーが会社を去った本当の理由

2015.6.29.(月)

 29歳と歴代最年少でマネジャーに就任した鈴木啓介は2014年5月、GHCを去りました(関連記事はこちら)。海外留学してMBA(経営学修士号)を取得するためです。内外から高い評価を受け、社内随一の慎重派でもあった鈴木の突然の行動に、関係者は驚かされました。

 実は鈴木は海外留学することを4年前から決意していました。鈴木が「海外」にこだわり続けたのには、GHC会長のアキよしかわに対する、あるこだわりがありました。

アキよしかわと元GHCマネジャーの鈴木啓介氏

アキよしかわと元GHCマネジャーの鈴木啓介氏

MBAが欲しかったわけではない

 GHCを去り、鈴木が入学したのはMIT(マサチューセッツ工科大学)の経営大学院スローンスクール。クラスメートは、世界38カ国からさまざまな人種が集いました。平均年令は38歳で、33歳の鈴木はまだまだ若手の部類に。生徒の中には企業のCEO(最高経営責任者)や、数学オリンピックのメダリストなどさまざまで、人生経験豊かな人材ぞろいでした。

 授業からの学びも多かったと言いますが、それ以上に同じ生徒たちからの学びがここでしか得られない貴重な財産でした。特に、リーダーシップを学ぶ授業では担当教授への厳しい反論が毎回のように飛び交い、学生たちが授業をボイコットすることもしばしば。あるときは、米ウォール街の第一線で活躍してきた金融系コンサルタントの学生が「俺が本当の金融危機の授業をするから、みんな隣の教室に移動してくれ」と号令を掛け、素晴らしい授業をやってのけるほど、猛者ぞろいでした。

 入学から1年後。無事に卒業した鈴木は、「コンサルタントにとってMBAは必要なスキルですが、それは目的の一部にすぎません。本当の目的は海外、米国に行って世界中から集まるタレントとぶつかり、自分の視野を広げ、人脈を築くこと。尊敬し合えるクラスメートと夜な夜な議論できたことは、何よりの収穫」と振り返ります。鈴木はなぜ、そこまで「海外」にこだわったのでしょうか。

ジョインを決めたきっかけ

 鈴木がGHCに入社したのはまだ26歳だった2006年。入社前、国内の製薬メーカーでトップ営業マンとして活躍していた鈴木は、自他ともに認める実績を上げながらも、満たされない気持ちでいました。大企業の看板がなくなった時に、個として勝負できる存在になることができるだろうか、より厳しい環境に身を置き、若いうちに“修行”を積む経験が必要と考えるようになりました。

 複数の選択肢が存在する医療の現場において、自社製品を売ることが大前提という立ち位置にも限界を感じていました。医療の世界で働き貢献するという意味では、メーカーという立場を超え、幅広い視野で医療界に貢献する、より多くの病院や医師をサポートするという手法と、長期的な視点で持続可能な医療環境を実現するため、コンサルタントを目指したいと考え至りました。

 大小さまざまなコンサルティング会社やシンクタンクにアクセスし、最終的にGHCへの入社を決めた時の心境を、鈴木はこう振り返ります。

 「入社前、当時の広尾オフィスで開かれた社内パーティーに誘われました。優秀な人材がそろっていて、『日本の医療を変えてみせる』と本気で考えている人たちばかりでした。ベンチャー企業に特有のそういう雰囲気も良かったけど、パーティー終盤でみんなが酔っぱらっている中、創業者のアキさんがニコニコしながら片付け、ゴミ拾いをしていたんです。創業者のそういう姿を見て、ジョインしたいと心から思いました」

憧れへの距離感

 入社後は昼夜を問わず分析、プレゼンという日々が待ち構えていました。完全実力主義のコンサルタントの世界。プレッシャーは大きかったものの、それ以上に仕事が楽しく、先輩にも恵まれました。明日のプレゼン資料ができていない状況で、先輩や仲間たちと夜中まで議論を繰り返し、そのまま寝ずに何とか資料をまとめ上げることなどは日常茶飯事で、「会社が小さい分、自分のウエートも大きく、一人一人が『何としても成果を出す』というドライブがありました」。

 全国を飛び回り、各地の特色を学びながら、医療産業を俯瞰できる点も魅力的でした。GHCは海外の動向に詳しく、海外のエビデンスを次から次へと国内に紹介し、海外の最新の手法を輸入するグローバルな側面と、全国各地を回って経験値を上げて全国どこでも通用する引き出しを増やすという2つを併せ持つ強みが、GHCのコンサルタントにはあります。鈴木はGHCを去るまでに約100病院、医師ら約2000人と議論を交わし、「グローバルとローカル」の強みを持つコンサルタントに成長しました。

 ただ、一つ気になることがありました。GHCでのアキと渡辺の存在感です。

 日米を行き来するアキは、日本にふらっと帰ってくると、「米スタンフォード大学の医療経済学の教授が来日するから勉強会を開こう」と、最新の医療経済学を学べる機会をつくったり、「米メイヨー・クリニックの幹部を次のセミナーに招へいすることが決まった」と発表したり、GHCの事業の根幹にかかわる情報や人脈をいつも海外に求めます。渡辺も“いつのまにか”日本医療界や世界中の重鎮との強固な関係を構築し、その中で変化の激しいビジネスを確実に持続しています。

 コンサルタントとして、マネジャーとして、鈴木がGHCの屋台骨を支える働きをしてきたことを疑う者はいません。そして、GHCの業務は社員一丸となって突き進んだ結果でもあります。しかし、ベンチマーク分析の概念を日本に広めたこと、DPCデータを分析するソフトを考案したことなど、GHCの強みと言える根幹にかかわる部分をアキか、社長の渡辺幸子が次々に展開していくのを間近で見続けました。鈴木の中では、アキ、渡辺との遠い距離が次第に鮮明になってきました。

世界を変え得る存在の条件

 2010年6月。GHCは社員研修で、かつてアキが教鞭を取った米スタンフォード大学を訪れました(関連記事はこちら)。アキの古巣であり、グーグルの創業者など世界的な経営者を育ててきた学び舎に立ったとき、言葉にならない衝撃を受けました。鈴木はGHCを去り、海外に飛び立つ決意を固めました。それからGHCで学び残したことを学び、英語を学び、海外留学の準備を進めました。鈴木の海外留学は、突然の行動ではなく、4年越しの、やはりGHC随一の慎重派の行動でした。

 最終出社日の14年5月9日、鈴木はGHCのメンバーとしての最後のメールで、次のような言葉を残しました。

 「今年で10周年を迎えるGHCですが、10年目のベテランも、1年目のルーキーも、毎年が勝負の年である環境が、GHCにはあると思います。電車や飛行機やレストランですぐにPCを開いたり、夜中に家族を寝かしつけてから内緒で分析したりなど、ちょっと変な生活にはなるけれど、世界を変える奴ってのは、そんな滅茶苦茶なところがあるはず。『次なる革新』をGHCが創造するのを、ずっと見ています」

 GHCでの鈴木の言葉は、アキやGHCの社員に対してだけでなく、自分自身に向けた挑戦状だったのかもしれません。(敬称略)

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